歴史

14 6月

【歴史】赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ…博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為

1 名前:Hi everyone! ★@\(^o^)/:2014/06/14(土) 09:43:25.65 ID:???.net
ソース(MSN産経ニュース) http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140615/wlf14061507000003-n1.htm
写真=手に穴を開けられる女性の姿が描かれている「蒙古襲来絵図」
http://sankei.jp.msn.com/images/news/140615/wlf14061507000003-l1.jpg


 九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、
日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、
日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も
数限りなかった。

■侵略される町々

 文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都
へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。

 最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手は
キム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。

 前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んで
いく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。

 ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中に
はまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。

 一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢
に立たされる。

 日本側の大将・少弐景資の放った矢が、元軍に2人いた副司令官のうち1人を射抜き、負傷させる戦果もあったが、博多の息浜
(おきのはま)まで攻め込まれるなど、やりたい放題に暴れられる。

 この戦いで箱崎(筥崎)神社が焼失する。博多の中心部でも元や高麗の兵による殺害や略奪、放火などが横行したことで地は血に
染まり、空は炎で真っ赤に染まったともいわれている。

■相次ぐ残虐行為

 このような行為は博多の前の戦場だった対馬と壱岐でも同様で、高麗の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、キム・バンギョンの
高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。

 日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。

 生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に
並べられたという記述は残酷で生々しい。

 奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとに
した記述のため、異論も出ている。

 ただ、山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂き
などにした残虐な話は数知れず。

 壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人
だったともいわれている。

 さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上する
といった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。

(>>2以降に続く)

2 名前:Hi everyone! ★@\(^o^)/:2014/06/14(土) 09:44:00.83 ID:???.net
(>>1の続き)

■突然に消えた敵

 戦いは元・高麗連合軍が優位のまま夜に入った。ここで双方とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を設けることなく、
全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまったのだ。

 しかも、一夜明けるとあれだけ湾内を埋め尽くしていた船がすべて姿を消していた。まるで忍術を使ったように影も形もなくバッと消えて
いたのだ。

 当然、今日も戦いが続くと思っていた日本の御家人らは、キツネにつままれたようにあっけにとられたことだろう。

 元の記録には戦ったことだけが記述されているが、高麗の記録にはこのときのいきさつが多少なりとも書かれている。

 それによると、船に帰投後、元の総司令官、クドゥン▽副司令官、ホン・タグ▽高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開に
ついて意見を交わしたとされている。

 キムが「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と戦闘の継続を主張したが、クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上
使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として撤退を決めたという。

 その決断の裏には、少弐景資の矢で負傷した元の副司令官の存在や、武器・食料の補給の問題もあっただろう。

 でも、気象や潮の流れなどの条件が重ならないと船を動かすことはできず、しかも渡航に1カ月かかった時代である。900隻の大船団
が遠くの沖合にいるならまだしも、すべてが忽然(こつぜん)と海上から消えたのはミステリーとしかいいようがない。

 これを“神風”、つまり台風を原因と見る向きもあるが、どうやら、それだけではなかったようである。

(終わり)

関連スレッド
【歴史】元寇・文永の役…モンゴル・朝鮮(元・高麗)軍が日本で行った“殺戮”、日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」[06/08]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1402184068/


引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1402706605

8 10月

【歴史】フランス人が日本併合前の朝鮮の家を「みすぼらしい茅屋」と表現

1 名前:HONEY MILKφ ★:2013/10/08(火) 16:31:40.97 ID:???
韓国では、「日本の統治がなければ韓国は今以上に発展していた」との考えが定説となっている。
だが、実際には韓国統監府と朝鮮総督府時代の40年間に近代国家に必要なあらゆる社会インフラ
が整備された。
 
SAPIO本誌が特集を組む「韓国は先進国になれない」、その理由のひとつが歴史の忘却である。
日本が統治する以前の状況をジャーナリストの水間政憲氏が明らかにする。ここでは道路、住居
事情について紹介する。

 * * *
首都・漢城(現在のソウル)には道路すらろくになかった。というのも、漢城の土地はすべて国有地
であり、平民が許可を得て土地を借り、建物を建設するには長い年月を必要とした。そのため、
路上の不法占拠が当たり前となり、無許可の建物が林立して道幅はどんどん狭くなったのだ。

日本が近代国家に生まれ変わる以前の江戸と比較しても、いかに都市計画が存在しなかったか
がわかる。

家は竪穴式住居に近いものがあった。フランス人宣教師、シャルル・ダレが1874年にまとめた
『朝鮮教会史』の「序論」(日本では東洋文庫『朝鮮事情』として翻訳出版)にはこう書かれている。

〈あなたは、みすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。ではあなたの知っている最も
貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度をさらに落として想像してみて下さい。するとそれが、
みすぼらしい朝鮮の住まいについての、ほとんど正確な姿となるでしょう〉

儒教思想が強いため、王宮よりも高い建物を建てることは許されず、2階建ては存在しなかった。

ソース:NEWSポストセブン
http://www.news-postseven.com/archives/20131008_211493.html


引用元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1381217500

21 7月

【韓国/歴史】新羅はローマ文化の影響受けた? 学術会議で熱い議論

1 名前:帰って来た仕事コナカッタ元声優 φ ★:2013/07/21(日) 08:10:04.99 ID:???
新羅が中国大陸を越えて中央アジアとも交易していた事実は、遺物の分析で判明している。
しかし新羅と西域の交流の実像は、まだベールに包まれたままだ。
「第2回慶州シルクロード国際学術会議」は、関連各国の学者が新羅と西域の交流に関する疑問点をぶつけ合う場だった。

(1)新羅王室のルーツは中央アジア?

4世紀から6世紀にかけての新羅王室の墓は積石木郭墳と呼ばれるが、この古墳は、古代中央アジアにいたスキタイ族の墳墓「クルガン」とも似ている。
このため、新羅王室はこの地域からやって来た遊牧騎馬民族だ、という学説が提起された。

聖林文化財研究院のパク・クァンヨル院長は「クルガンは中央アジアで2世紀から3世紀にかけて作られ、
モンゴル草原など中間地帯では見つかっていないことから、両者を結び付けるのは無理」と主張した。
韓神大学のクォン・オヨン教授も「新羅王室の起源を中央アジアや匈奴(きょうど)と結び付けるのは非学問的」と語った。

これに対し、カザフスタン学術院考古学研究所アスタナ分所のサマセフ分所長は
「中央アジアのクルガンは4-5世紀ごろにも見られ、両地域の遺物が似ていることから、結び付けることは可能」と主張した。
また、漢城百済博物館のイ・インスク館長も「4世紀以降、新羅で金製品が増えて金氏王朝が成立したことは、
金を重視し機動性に優れていた中央アジア遊牧民の移住と結び付けて理解することができる」と語った。

(2)掛陵の前に立つ武人の石像は西域人?

元聖王の王陵と推定されている慶州の掛陵前には、「西域人」の石像がある。この石像について、
ウズベキスタン学術院考古学研究所のアナルバエフ副所長は、サマルカンドの壁画と石像との類似性を挙げ
「石像の正体はサマルカンドから来たソグド人」と主張した。
7-8世紀ごろ、シルクロード全域で活動していたソグド人の一部が新羅にやって来て、手柄を立てたことをたたえるために石像を作ったという。

これに対し、慶州大学のイム・ヨンエ教授は「ソグド人が2万人もいた唐でも、皇帝陵の前に西域人の像はなかった。
唐より閉鎖的だった新羅が、王陵の前に外国人の石像を立てたはずがない」
「元聖王は熱心な仏教徒だったが、寺の金剛力士像や四天王像は西域人とはいわない」と語った。

(3)新羅文化はローマ文化の影響を受けた?

新羅古墳の遺物の中でも異色の存在といえる黄金宝剣とローマン・ガラスをめぐっても、異論が相次いだ。
能登島ガラス工房の由水常雄・取締役会長は「黄金宝剣は、様式・文様・材質から見て、中部ヨーロッパで暮らしていたケルト人の王が贈ったもの。
新羅の王冠の形(樹木冠)、ローマン・ガラス、角杯、鎖状のアクセサリーなども、新羅がローマ文化の影響を直接受けたことを示している」と主張した。

これに対し韓国国立中央博物館のユン・サンドク学芸研究士は「黄金宝剣の様式はカザフスタンのボロボエで出土した短剣と似ており、
技術は東ローマが起源。中央アジアで活動していた集団が東ヨーロッパの職人に注文したもの」と主張した。

李先敏(イ・ソンミン)記者

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/07/21/2013072100064.html


引用元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1374361804

26 3月

【韓国/歴史】チョン所長「アラブ人がシルクロードを通り新羅に定着したという記録は多い、世界に知らしめる必要がある」

1 名前:[―{}@{}@{}-] 帰って来た仕事コナカッタ元声優 φ ★:2013/03/26(火) 21:21:16.72 ID:???
慶尚北道が野心に満ちたシルクロードプロジェクトを始めた。「慶州とシルクロードの関係」を世界に知らせようということだ。
20日、「コリアシルクロードプロジェクト」国家事業化のための推進委員会が発足した。21日には第1次探検隊がシルクロードの重要地点、中国の西安に向けて出発した。
このプロジェクトの企画には、韓国最高のシルクロード研究者チョン・スイル韓国文明交流研究所所長も参加した。20日、チョン所長にロッテホテルで会った。以下は一問一答の要旨。

-このプロジェクトを企画した意図は。

「統一新羅とシルクロードの関係を究明しようということだ。もっと明確に言えば、慶州がシルクロードの東端起点ということを知らせようということだ。
統一新羅と西域の間でシルクロードを通じた交易が盛んだったが、私たちはその時代、韓半島がどのように世界と疎通し、関係してきたかについて、あまり知らない。
シルクロードは東西疎通の道で、私たちの根がある道であり、これは未来の韓国の歴史観にも影響を及ぼす。したがって歴史的に尊重し、研究しなければいけない」

-慶州がシルクロードの東端起点という主張は言い過ぎでは。

「慶州がシルクロードで最も重要な場所だったというのではない。中国西安が最も重要な都市だったのは正しい。
しかし慶州が東側の出発点だったという点を想起させようということだ。実際、シルクロードはいくつかの道に分れている。3大幹線、5大支線という網目型の経路だ。
幹線路の東端起点で終着点が“金色に輝く都城”の金城、すなわち“慶びの村”の慶州だ。これまで学問的にシルクロードから韓半島が除外されてきた。中国に研究が偏ってきた。
しかしそれは事実でない。各種遺物・記録から、シルクロードは韓国と西域、南米までも関連していることが明らかになった。シルクロードを学問的に新しく確立しなければいけない」

-遺物や記録のような歴史的な証拠はあるのか。

「日本の学者、由水常雄氏の『ローマ文化の王国-新羅』では、新羅をローマ文化の王国と描写している。ローマ時代から西域と新羅の間に活発な交流があったということだ。
もちろん遺物と史料で立証される。例えば文官の埴輪や武人の石像など地上の遺物を見ればよい。すべてローマ、ペルシャ、アラブと関連した遺物だ。
新羅文化に見られる蓮華・唐草文様の壁画や古代ギリシャ文様も同じだ。中国やイスラム圏、西欧、欧州にも多大な学問的な影響を及ぼした
イドリシ(Abu “abdallah al-Idrisi、1100-1165年)が1154年に制作した世界地図には、新羅が中国の海岸に散らばる多くの島国の一つとして描写されている。
昔から新羅がシルクロードを通じて知られていたという記録だ。統一新羅の僧侶・慧超が書いた『往五天竺国伝』も歴史的な根拠になる」

-新羅がアラブ圏と直接関係を結んだという記録はあるか。

「当然ある。ほとんどの記録が新羅を理想郷と見ている。845年ごろ、アラブ歴史学者イブンフルダーズベーが書いた『王国総覧』には、
『中国の東側に新羅という国があるが、9人の王が治め、金が多く、住みやすい美しい国だ。このため新羅に行けば帰らず永遠に暮らす同族が多い』という記録が出てくる。
ムスリム地理学者マクディシが966年に書いた『創世と歴史書』にも『中国の東側に新羅という国があるが、
空気が澄んで、富が多く、土地が肥沃で、水が良いだけでなく、住民の性格も穏やかで、新羅に行った人たちはそこから離れようとしない』とある。
慶州の掛陵(新羅第38代元聖王の墓と推定)の前に立っている武人石像が新羅に来たアラブ人を表している」

(続く)

http://japanese.joins.com/article/766/169766.html?servcode=400&sectcode=400

2 名前:[―{}@{}@{}-] 帰って来た仕事コナカッタ元声優 φ ★:2013/03/26(火) 21:21:38.24 ID:???
>>1の続き

-より直接的な交易の証拠が必要では。

「装飾宝剣を例に挙げることができる。これは5、6世紀にローマから地中海を通って新羅に入ったものだ。韓国だけで発見される。またアラブ系、西域系の遺物も多い。
代表的なのが乳香と安息香などアラブ産の香料、新羅古墳・寺院から出土する各種ガラス器具、一般庶民も愛用した瑟瑟(西域産宝石)や玉のような嗜好品、短剣や埴輪がある。
統一新羅も西域に物を輸出した。地理学者イブンフルダーズベーは歴史地理書『諸道路及び諸王国地』(845年)で、
絹、剣、麝香、沈香、鞍、貂皮、陶器、帆布、肉桂など11品目を挙げている」

--どのような経路でシルクロードが慶州まで続いたのか。

「すでに陸路、海路ともにあるという研究結果が発表されている。陸路を立証した史料は燕(BC323-BC222)で作られた貨幣の明刀銭だ。
明刀銭は古朝鮮・高句麗・渤海で主に発見され、慶州と南海にいたるまで幅広い地域で発掘されている。これは陸路を通じた交流を表す事例であり証拠だ。
こういう遺物を見れば、シルクロードが韓半島まで達していたことを推定できる」

--なぜ「シルクロード韓半島延長説」はあまり知られていないのか。

「きちんと研究をし、これを知らせようという努力がなかった。2000年に『イスタンブール-慶州エキスポ』で初めて私たちが地図に点線ではあるがシルクロードを表現して展示した。
慶州から西安までを“シルクロード”と広報している。最近はもう少し堂々と努力している」

--日本も「シルクロード延長説」を主張するが、根拠はあるのか。

「かなり努力している。しかし日本は島だ。韓半島を通じて日本まで行ったが、陸路ではない。日本は私たちのように埋没遺物、地上遺物がない。
奈良県の東大寺にある王室の遺物倉庫に行けば、新羅遺物や西域遺物がある。日本側はそこにある新羅遺物も西域との交流の証拠と主張する。
シルクロードの地図も別に作り、海路が日本にまで続いたという」

--シルクロードが韓半島まで続いていたということは何を意味するのか。

「かなり以前から韓半島は世界と疎通していたという点が改めて注目される。シルクロードと関連した国や国民および研究者にとって新鮮な衝撃であり、
文明交流の通路であるシルクロードの活性化に世界史的に寄与することになる。シルクロードは砂漠や海水に埋もれた死んだ道ではなく、生きて呼吸する道だ。
道端の一つの草、土器の欠片、色あせた壁画1枚、崩れた家の跡など…。すべてのものが無言で昨日を知らせ、今日を悟らせ、明日を眺めさせる。
シルクロードは遠くても近くの私たちの中にある道だ。苦行とロマンが共存する道でもある。その意味を大切にしなければならない」

http://japanese.joins.com/article/767/169767.html?servcode=400&sectcode=400


引用元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1364300476

10 3月

【日韓/歴史】「米国人にしか見えない…」国家記録院発表の「日本軍に連行される韓国人」写真に捏造疑惑

1 名前:帰って来た仕事コナカッタ元声優 φ ★:2013/03/10(日) 00:24:03.18 ID:???
写真に写っているのは日本軍か?

独立運動記念日を迎え、韓国安全行政部国家記録院の公開した写真が、ネット上で話題になっている。
「日本軍に連行される韓国人労働者」の写真とされているが、映っている軍人は米国人にしか見えないためだ。

欧米系軍人の腕章に「MP」

この写真について、韓国中央日報日本語版は3月1日、
「当時の日本人警察、タラワ島に連れて行かれる韓国人労働者の姿、学徒補給隊動員の姿などが見られる」
などと報じた。HP上に掲載された写真には、ヤシの木が植わった浜辺で、担架で人を運ぶアジア人の姿が写っている。

背後には、迷彩服にヘルメット姿の軍人も見えるが、その顔立ちは明らかに日本人ではなく、欧米系だ。さらに軍人の腕章を拡大すると、「MP」の文字がハッキリと読み取れる。

中央日報の記事によると、今回発表された資料は、英国国家記録院や米国国家記録管理庁などが保管していたもので、日本軍の抑圧・収奪現場が撮影された写真も含まれるという。

竹島、慰安婦の資料にも疑念

ネット上ではこの件について、早速批判の声がわき上がっている。

ネットがない時代はこの程度の嘘でも事実にされてきたんだろうな
竹島に関する韓国側の資料もこんな感じなんだろうなーきっと
(ハムスター速報より抜粋)


今回、資料を公表したのは、民間ではなく韓国の国家記録院である。発表前に少し疑いの気持ちを持って確認すれば、「日本軍」が写っていないことは確認できたはずだ。

竹島問題や従軍慰安婦問題など、日韓で見解の分かれる問題は数多い。韓国側が出してくる資料の精度がどの程度のものか、疑惑が募る。

http://www.tax-hoken.com/news_ayLjwzfmhw.html
http://japanese.joins.com/upload/images/2013/03/20130301170403-1.jpg


引用元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1362842643

1 3月

【韓国/歴史】チョン教授「日本は朝鮮の植民地化を正当化するため、血液型分類研究で劣等民族と決めつけた」

1 名前:帰って来た仕事コナカッタ元声優 φ ★:2013/02/28(木) 22:17:52.88 ID:???
3月1日の3・1節(3・1独立運動記念日)をあすに控え、日本の植民地時代の医療関係者らが朝鮮の植民地化を正当化するため、
朝鮮人を血液型で分類する研究に固執していたとの論文が発表された。

 翰林大学日本学研究所のチョン・ジュンヨン教授が大韓医史学会誌最新号に投稿した論文によると、
朝鮮人を対象にした初めての血液型分類研究結果は1922年7月の「東京医事新誌」に発表された。
同研究報告書の著者は京城医学専門学校外科教室の桐原真一教授と弟子の白麟済と記されている。
調査対象は朝鮮総督府医院の外来患者と病院職員、京城監獄収監者など日本人502人と朝鮮人1167人。
同研究チームは報告書で日本人は朝鮮人よりも人種的に優れていると主張した。

これはドイツ人学者、ヒルシュフェルトが1919年に医学専門誌「ランセット(The Lancet)」に掲載した「人種別血液の血清学的違い」という調査結果を根拠としている。
当時、ヒルシュフェルトは進化した民族であるほどB型よりA型が多いと考え「人種係数」という数値をつくった。
人種係数は英国人(4.5)、フランス人(3.2)、イタリア人(2.8)、ドイツ人(2.8)、オーストリア人(2.5)の順で高かった。
その一方、ベトナム人(0.5)、インド人(0.5)などは低かった。ヒルシュフェルトは人種係数が2.0以上を「欧州型」、1.3未満は「アジア・アフリカ型」、
アラブ人(1.5)、トルコ人(1.8)、ロシア人(1.3)、ユダヤ人(1.3)など2.0~1.3は「中間型」と分類した。

桐原教授は報告書でヒルシュフェルトの研究を基に調査した結果、朝鮮に居住する日本人の人種係数は1.78で「中間型」だが、
朝鮮人は全羅南道(1.41)を除けば平安北道(0.83)、京畿道(1.00)、忠清北道(1.08)などは「アジア・アフリカ型」に属すると主張した。
桐原教授は報告書で「朝鮮南部(全羅南道)の事例を見ると日本と朝鮮という二つの民族の間には歴史的、言語的な類似性があるかもしれない」と分析した。

これについてチョン教授は論文で「朝鮮人は日本人に比べ人種的に劣っていると科学的な主張をしながらも、
一方では朝鮮南部地域と日本の間の『日鮮同祖』の可能性を示した点で、当時の植民地史観研究者の歴史認識と重なる部分がある」と分析した。

植民地時代の朝鮮人に対するこのような血液型調査は、1926年に京城帝国大学医学部が設立されてからさらに活発になり、
1934年までの4年間に2万4929人を対象に実施された。同調査の平均人種係数は1.07で、「アジア・アフリカ型」から外れることはなかった。

京城帝国大学医学部は1934年から5年間に満州や内モンゴル地域で北東アジアの民族を対象に血液型調査を実施し、
朝鮮北部と満州、内モンゴル人に「人種的劣等性」が共通して見られるとする結論を出している。
チョン教授は、この結論を朝鮮人全体としてではなく朝鮮北部と南部という地域に分類することで、朝鮮人という一つの民族を解体する意図があったと指摘する。

また、桐原教授とともに研究を行った白麟済について、
「3・1独立運動を主導したことで知られていた白麟済が朝鮮人の人種的劣等性を追認し、科学的権威に屈服する態度を見せた」と主張した。

さらに、血液型分類は日本民族の特権を正当化し、植民地支配を進めていく上で必要とされたと指摘。
「私たちが何気なく接する血液型の話には植民地的近代につながる知識と権力の系図が潜んでいることに留意する必要がある」と強調した。

http://m.yna.co.kr/mob2/jp/contents_jp.jsp?cid=AJP20130228002300882&domain=6&ctype=A&site=0100000000&mobile


引用元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1362057472

8 2月

【韓国/歴史】「埼玉・稲荷山古墳出土鉄剣の銘、朝鮮漢字で読むと日本の皇室が百済王室から分かれた証拠」

1 名前:帰って来た仕事コナカッタ元声優 φ ★:2013/02/08(金) 16:40:14.86 ID:???
1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘について、韓国の学者が新たな解釈を示した。

西江大学のキム・ヨンドク物理学科名誉教授は1996年の退任後、本格的に百済史の研究に取り組んできた。
このほど、稲荷山古墳出土の鉄剣の銘をもとに、日本の王室が百済王室から分かれたとの見解を示す書籍を出した。

5世紀につくられた鉄剣には115文字の漢字が刻まれている。日本の学界では、ヤマト王権にこの地の豪族が仕えていたとするのが通説だ。

しかしキム名誉教授は、銘を朝鮮漢字音で読むと、高句麗が396年に百済を攻め、
当時百済の領地だった河東の侯王一族が日本に亡命し、百済の侯王として擁立されたという、百済の歴史を示すものと解釈した。

また、5世紀半ばごろ、関東と関西、九州の3カ所に百済の王族が派遣される行政所が置かれていたとし、
稲荷山古墳出土鉄剣の銘は、百済の一つの王室から二つの国の王統へとつながったことを示す貴重な歴史資料だと主張した。

http://m.yna.co.kr/mob2/jp/contents_jp.jsp?cid=AJP20130208001500882&domain=6&ctype=A&site=0100000000&mobile


引用元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1360309214

8 2月

【韓国/歴史】留学生の二・八独立宣言から94年、東京で記念式典開催へ

1 名前:帰って来た仕事コナカッタ元声優 φ ★:2013/02/07(木) 19:12:04.15 ID:???
日本からの独立を求め、1919年に朝鮮半島で起きた三・一独立運動の発端となった二・八独立宣言の94周年記念式典が
8日午前11時、東京の在日韓国YMCAで開かれる。式典は韓国YMCAの主催。
申ガク秀(シン・ガクス)駐日韓国大使ら約300人が出席する。

韓国でも同時間にソウル市庁舎で記念式典(韓国独立有功者協会主催)が行われる。

二・八独立宣言は1919年2月8日、東京で韓国人留学生らが祖国独立を求め、採択した。
当時、在日留学生が結成した「朝鮮成年独立団」の名義で発表され、留学生約400人が集まった。

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/02/07/2013020702219.html


引用元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1360231924

24 4月

【歴史】 百済人は下駄をはいた?~碁盤、七支刀、木造弥勒像など展示する漢城百済博物館開館(ソウル)

1 名前:蚯蚓φ ★:2012/04/24(火) 00:33:15.18 ID:???

ソウル市は4月30日、漢城百済博物館を正式開館する。(中略:経緯)

http://res.heraldm.com/content/image/2012/04/23/20120423000976_1.jpg


おもしろいのは博物館に展示された百済の遺物だ。国宝から史蹟に至るまで百済と関わる遺物4
万2311点がこの博物館に展示される。この中で断然人目を引く遺物は下駄だ。百済人たちの日
常生活の遺物の一つとして展示された下駄は日本人たちがはく‘ゲタ’とそっくりだ。博物館関係
者は「下駄も当時、漢城百済遺物の一つで百済と日本の緊密な歴史的関係を考慮する時、百済
の下駄が日本のゲタにつながった可能性もある」と説明した。
(中略)

◆展示遺物の中でハイライト‘土管’=土管は土で作った下水管だ。博物館関係者は「土管は今ま
で出土されたどんな百済遺物よりも重要だ。この土管が当時、百済の人々が土管を通じて下水管
体系を作って運用したという事実の証拠」と言った。

http://res.heraldm.com/content/image/2012/04/23/20120423000973_1.jpg


碁盤は日本の幾多の貴い昔の遺物を保管している正倉院(東大寺の付属倉庫)に保管されている
ものを2億ウォンをかけて現在の技術でそのまま修復したもので、復元品だがそのもの自体が宝
物以上の意味を持っている。

http://res.heraldm.com/content/image/2012/04/23/20120423000975_1.jpg


やはり日本石上神宮に保管されていた宝物である七支刀も原型そのまま修復して展示している。
七支刀は百済近肖古王当時に日本の倭王に贈った刀という象眼が刻まれている刀で製作時期
は近肖古王24年の西紀369年だ。長さ74.9センチであるこの刀は滑らかな鉄材白光彩を出す。

http://res.heraldm.com/content/image/2012/04/23/20120423000985_1.jpg


西紀523年頃、中国の梁国に全使臣国の使臣たちを描いた絵である梁職貢図もまた人目を引く。
この絵でやや細い目つき、とおった鼻筋、小さくて厚目な唇の百済国使臣の外貌は現在の私たち
の姿と大差なく驚かされる。

http://res.heraldm.com/content/image/2012/04/23/20120423000986_1.jpg


西暦4~5世紀、百済から中国や日本を行き交った百済船も長さ12.6メートルの実際の大きさで
修復し展示している。関係者は「古代船舶専門家が総掛かりで修復した作品で現在、漢江に浮か
べて運航しても良いだけ堅固にした」と説明する。観客は甲板の下の船室や台所などに入って内
部構造をのぞき見ることもできる。

第3ショールームの展示主題は‘三国の角逐’だ。こちらでは高句麗、百済、新羅に関連した遺物
が展示されたり映像が上映される。こちらには日本国宝1号の広隆寺木造弥勒半跏思惟像がそ
のまま復元されて展示される。日本側は日本が自主的に製作したと主張しているが、私たちの国
宝83号の金銅弥勒半跏思惟像と似ている点、日本にはない我が国の松で作られた点等を考慮し
て韓国で製作されたか韓国の影響を大きく受けた作品と見るのが定説というのが博物館側の説
明だ。

http://res.heraldm.com/content/image/2012/04/23/20120423000974_1.jpg

(後略)

ソース:ヘラルド経済(韓国語) 百済人々は下駄をはいたか?(部分訳)
http://view.heraldm.com/view.php?ud=20120423001019&cpv=0


16 4月

【歴史】 古代の北朝鮮は進んでいたのに、今、不可思議な国になったのは日本の戦前の支配も原因/毎日小学生新聞

1 名前:蚯蚓φ ★:2012/04/15(日) 13:17:49.85 ID:???

東京芸術大学のチームが2月、北朝鮮にある世界文化遺産「高句麗古墳群」の古墳の壁画を独
自のデジタル技術を使って、世界で初めて原寸大で復元したというニュースがありました。

北朝鮮と言えば、「人工衛星」と言いながら実際は軍事ミサイルの実験を行うのではないか……と
疑われている怪しい国のイメージがあります。しかし、こうした不可思議な国になったのは第二次
世界大戦後のこと。しかも、日本の戦前の支配も原因の一つでした。

紀元3~5世紀ごろに全盛を迎えた「高句麗王朝」のころは、日本よりもはるかに進んだ文明国家
があり、仏教などの宗教、学問の中には当時、高句麗を経て中国から伝えられたものもあります。

復元された壁画は、切手などでも知られる飛鳥時代の高松塚古墳(奈良県明日香村)の美しい壁
画とそっくりなのが分かるでしょう。当時の日本は高句麗の美しい文明をそのまま、コピペしながら
輸入し、やがて独自の文化を生み出していったのです。【森忠彦(もりただひこ)】

ソース:毎日小学生新聞<ニュースな歴史館:古代の北朝鮮は進んでいた>
http://mainichi.jp/feature/maisho/news/20120413kei00s00s015000c.html


ウリのすぽんさーニダ
ブログ情報ニダ
はてなブックマーク数
QRこーどニダ
QRコード
記事検索ニダ
月別あーかいぶニダ
アクセス数ニダ
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

あくせすらんきんぐニダ
ブログパーツ
最新記事ニダ
おすすめサイト様ニダ
ウリのすぽんさーニダ
ブログ情報ニダ
はてなブックマーク数
QRこーどニダ
QRコード
記事検索ニダ
最新記事ニダ
おすすめニダ
あくせす集計ニダ
  • ライブドアブログ