- 1 名前:ねこ名無し ★:2017/10/09(月) 05:35:11.71 ID:CAP_USER.net
日韓関係をぎくしゃくさせている原因のひとつとしてあげられることの多い、日本による「朝鮮統治」。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、朝鮮総督府で官吏をされていた西川清氏の著書『朝鮮総督府官吏、最後の証言』の内容を引きながら、朝鮮統治時代の日本人と朝鮮の人々との関係性について、メルマガ著者の伊勢雅臣さんが分析・解説しています。
朝鮮総督府の「一視同仁」チームワーク
朝鮮総督府で官吏をされていた人が、当時の体験を語った貴重な本がある。本年7月、102歳で亡くなられた西川清氏の『朝鮮総督府官吏、最後の証言』だ。表紙の帯には「おそらく総督府の実態を語れるのは私が最後だと思います」との発言がある。
この本の裏表紙にある写真が、西川さんの証言のすべてを物語っている。そこでは4人の若い男性が桜の木の下で、肩を組んでいる。キャプションには「1934年 官吏仲間と楽しく花見する西川氏」とある。
一人は着物を着ているので日本人と分かるが、他の3人は洋服だ。そのうちの一人が西川さんで「大和系日本人」、残る2人の青年には「朝鮮系日本人」と注意書きされている。
仲良く肩を組んでいるので、そのような注意書きがなければ、誰が日本人で誰が朝鮮人だか全くわからない。西川さんの朝鮮総督府での業務体験を読んでいくと、日本人と朝鮮人が一体となったチームワークで仕事をしていたことがよく窺われる。
町の周囲の山が禿山だった
西川さんは昭和8(1933)年18歳で和歌山県の熊野林業学校を卒業し、校長の斡旋で朝鮮総督府に就職した。朝鮮といっても、当時は内地(国内)、外地(朝鮮、台湾)とも同じ日本だったので、日本国内の遠い地方に行くという感覚だった。任地は江原道(こうげんどう)。「道」は日本で言えば「県」にあたり、江原道は朝鮮半島の東海岸、南北ではちょうど中程にあった。
朝鮮に行ってまず驚いた事は、釜山(プサン)や京城(ケイジョウ、現ソウル)など町の周囲の山が禿山だったことです。
…朝鮮にはオンドルという薪(まき)を焚いて床を暖める設備がどこの家にもありました。朝鮮は非常に寒くなりますから、このオンドルには大量の薪が必要です。しかし、朝鮮には植林をするという技術もなく、指導者もいなかったので、街に近い山々にはほとんど樹木がなくなっていました。
(『朝鮮総督府官吏 最後の証言』桜の花出版編集部/星雲社)
西川さんの最初の仕事は、この禿山に植林をすることだった。まず土が流れないよう、70~80センチの段々を作り、そこに木を植える。植林は土砂崩れや洪水防止のために急務であった。また海の近くに植林することで、漁場に栄養が行き渡る。西川さんは日本の林業学校で「樹のない国は滅ぶ」と教えられていた。
朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9,000万本もの植林を行った。朝鮮全人口の一人あたり約25本という膨大な数である。西川さんはその一翼を担ったのである。
日本人官吏と朝鮮人官吏の給与も出世も平等だった
昭和11(1936)年に朝鮮総督府は地方官吏養成所を設け、西川さんはその第1期生として京城で1年間学んだ。江原道からは5人が送られたが、そのうちの2人は朝鮮人だった。養成所の第1期から朝鮮人も選ばれて、幹部候補生として育てられたのである。幹部ともなれば、日本人の上司となることも、ごく普通であった。
昭和18(1943)年、西川さんは江原道の21の郡の一つ、寧越郡の内務課長に昇進した。寧越郡は7つほどの村を管轄しており、全体で60名ほどの職員がいた。どこの郡でも郡守はほとんど朝鮮人で、寧越郡も例外ではなかった。西川さんは朝鮮人郡守の下で内務課長を務めたわけである。
給与も出世についても、日本人も朝鮮人も全く差別はなかった。ただ内地から来た日本人には外地手当が支給された。したがって内地に働く日本人官吏と、朝鮮で働く朝鮮人官吏は同じ給与だったようだ。これは現在の多くの日本企業の海外法人よりも公平である。
その後、西川さんは道庁に移って課長補佐になったが、そこでも朝鮮人の方がずっと日本人よりも多く、また道庁の部長もほとんど朝鮮人であった。
http://news.livedoor.com/article/detail/13700505/
(>>2以降に続く)
- 2 名前:ねこ名無し ★:2017/10/09(月) 05:35:33.59 ID:CAP_USER.net
(>>1の続き)
ここでも朝鮮人の上司に仕えたのだが、西川さんは全く違和感はなかったという。朝鮮人の上司は、西川さんをとても可愛がってくれた。
朝鮮統治では、「皇民化」で当時の朝鮮人を軍国主義に染め上げようとした、などとの批判が現在されているが、それについて西川さんはこう答える。
皇民化政策について勘違いしている方が多いのです。日本人も朝鮮人も皇民だったということです。皇民化とは日本と朝鮮の格差や差別をなくすためのものだったと思います。
(同上)
道庁内では各課ごとに野球チームを作り、野球大会をやっていた。朝鮮人は野球がとてもうまく、朝鮮人だけのチームもあったが、そこが一番強いかというと、そうではなかった。なぜか朝鮮人と日本人の混合チームがいちばん強かったと言う。個人の能力の高い朝鮮人とチームワークに優れた日本人の強みがうまく補完し合うからだろう。
朝鮮は、日韓併合後の最初の20年で、人口も米の生産量も2倍となるなどの高度成長期を迎えるが、その原動力の一つが、この日本人と朝鮮人のチームワークだった。
朝鮮人は日本名を名乗る権利があった
朝鮮人に日本名を名のらせる創氏改名が強制されたというのも、戦後の神話である。
道庁の朝鮮人官吏の人でも、創氏改名しない人はたくさんいました。はっきりと覚えていませんが、私の周りでは半数以上といったところでしょうか。「創氏改名しろ」と言う命令があったのなら、朝鮮人の官吏は、真っ先に改名しなければならなかったでしょう。
総督府の組織の人間である官吏の朝鮮人が、国の言うことを聞かないと言う事はできません。それが名前を変えなかったという事は、創氏改名は自由だったということです。
(同上)
むしろ朝鮮人が日本名を欲しがったと言う話も聞いたくらいだった。「あの当時は同じ日本人なのだから、したかったらしたらという感じでした。無理にしろということではありません」と西川さんは回想する。実際に「氏の創設は自由 強制と誤解するな」という総督からの注意が新聞記事でも残っている。
もし、創氏改名が出来なければ差別になります。日本人と同じと言っておきながら、朝鮮人が日本名に変えることができないとなると、これは一つの矛盾となります。朝鮮人は日本名を名乗る権利があったのです。
(同上)
「徴用は、強制というより納得するように話すんです」
現在、朝鮮人労働者を日本内地で働かせた「徴用」は「強制労働」とレッテルを貼られ、当時の日本企業に損害賠償を求める裁判まで起こされている。
西川さんは寧越郡の内務課長時代にこの「徴用」に取り組んだ。徴用とは戦時下の労働力不足に対応するための国民に対する勤労動員である。内地では昭和14(1939)年から実施されていたが、朝鮮では昭和19(1944)年9月に開始された。
朝鮮総督府が各道庁に朝鮮人男子青年の人数を割り当て、道庁は郡に、郡は面(村)に人数を割り当てる。ただし、西川さんの前任者は、10人の割り当てがあっても、5~6人しか集められなかった。
西川さんは10人の割り当てに10人集めた。その成績が非常に良いと言うことで総督府の事務官が理由を聞きに、西川さんの所にやってきた。逆に言えば、徴用は法律上は強制であっても、実際には言うことを聞かない朝鮮人も多かった、ということである。
どうやって集めたかと言うと、面長(村長)とか、関係の人にきちんと説明して、本人にも納得するように説明してもらう事でした。…
徴用は、強制というより納得するように話すんです。それをしっかりと話をしないで、集めようとするから、皆、嫌がって日本に行かないことがわかりました。
私はきちんと、日本に行って、日本人と同じ仕事をして、賃金もきちんともらえると、係官に説明をしてもらったのです。
(同上)
これが「強制労働」の実態だった。
「従軍慰安婦」の強制連行はなかった
「従軍慰安婦」の強制連行などは無かった、と西川さんは断言する。もし「従軍慰安婦」の強制連行があったら、徴用と同じように人数の割り当てがあり、内務課長がその人数を集める責任を負うはずだ。内務課長であった西川さんがそれをしてなかったという事は、強制連行の事実がなかったと言うことになる。
百歩譲って、西川さんが嘘をついていたとしても、まだまだ反証がある。西川さんの周囲には、郡長や部長レベルも含め多くの朝鮮人官吏がいた。もし朝鮮人女性をトラックで無理矢理連行するような事があったら、それらの朝鮮人官吏が黙って見ていたはずがない。必ず大騒動が各地に起こったであろう。
(続く)
- 3 名前:ねこ名無し ★:2017/10/09(月) 05:35:43.39 ID:CAP_USER.net
(続き)
さらにもう一つの証拠として、当時の行政の厳格な文書主義がある。戦後、西川さんが帰国して、再就職する際に、政府から履歴書を再発行してもらった。そこには朝鮮に渡った18歳からの経歴、役職、給与までが克明に記録されていた。コンピューターもない時代に、総督府は一人ひとりの官吏にまで、このような詳細な記録を残していたのである。
終戦後の引き揚げの混乱の中でも、総督府は「特別輸送乗車船証明書」を発行している。これは引き揚げの交通費を免除するためのもので、印刷された用紙に名前を書き、公印まで押している。
もし総督府が行政命令として慰安婦を集めていたら、その命令書や執行報告書、そして集められた慰安婦たちの一人ひとりの記録が残されていたはずだ。西川さんは引き揚げ時には書類はすべて道庁に残してきたというから、もし慰安婦の強制連行があったら、その膨大な証拠書類が出てこないわけがないのである。
朝鮮人志願兵への応募30万人
「従軍慰安婦」とは対照的に、朝鮮人志願兵の記録は詳細に残っている。朝鮮人の第一回志願兵募集が始まったのは昭和13(1938)年だった。応募者は2,976人と倍率が7倍を超えたので、採用者を増やして480人が採用された。
志願者は年々増え続け、昭和18(1943)年には30万人にも達した。採用予定者は5,300人で、倍率は約57倍だった。この年にはさらに幹部候補の募集も行われた。
日本の軍隊の特徴は、日本人と朝鮮人を混在させた点にあった。そのため朝鮮人上官の下に日本人兵が配置されることもあった。そこでは朝鮮人上官が日本人の部下を怒鳴りつけたり、殴ったり、靴を磨かせていた事も、当時の軍として普通に見られたようだ。
アメリカでは、白人部隊と黒人部隊が完全に分かれ、黒人の上官の下に白人の部下がつくことなど、ありえなかった時代の話である。
靖国神社には、日本軍として戦った朝鮮人兵士約2万1,000人以上が英霊として祀られている。「一視同仁」、すなわち、日本人も朝鮮人も同じ「皇民」である、とする精神が軍隊内での処遇においても、慰霊においても実践されていたということである。
「私たちは、恥ずべきことは何一つしておりません」
終戦の玉音放送を、西川さんは自分の机で聞いた。よくは聞き取れなかったが、「忍び難きを忍び」などの天皇陛下のお言葉を聞いて負けたということがわかった。道庁の中で、朝鮮人官吏の様子については特に変わった様子もなかったようで、記憶に残っていないという。
西川さんは翌日も、職場に行った。
私は机の身近なものなど片付けて、それ以上はもう自分は必要ないから触らずに帰ってきたわけです。何も朝鮮と戦争した訳でもないから、朝鮮を差別したこともないし、内鮮一体でやってきたわけだし、私たちは、恥ずべきことは何一つしておりません。
朝鮮人と日本人と一緒になって、一生懸命やりましょうということだけで、仕事をしてきたわけです。江原道庁で、見られて都合の悪い書類なんて何もありませんでした。総督府は善政を敷いたのです。
(同上)
日本の朝鮮統治は「植民地化」ではなく、「合邦」、企業で言えば「合併」であった。そして西川さんたち朝鮮総督府官吏は、日本人も朝鮮人も「一視同仁」、「内鮮一体」の理想に忠実に、良きチームワークを発揮してきたのである。
玉音放送の2、3日後、日本人が一人二人とコソコソと引き揚げてることを聞いて西川さんは人事課長の所へ行って、提案した。
戦争に負けて国は三等国以下になったとしても、我々国民はそのまま世界の一等国民ではありませんか、こそこそと逃げて帰るような事はしたくないです。現在、春川(シュンセン)に約1,000人位いると思われる日本人全員が一カ所に整然と引き揚げて、流石(さすが)日本国民だ、綺麗な引き揚げ方だったと、朝鮮人から言われるような引き揚げをしませんか。
(同上)
その言葉通り、在留邦人たちは一体となって、西川さんが仕立てた列車で釜山に行き、収容所で1ヶ月、船を待って、日本に帰り着いた。「一等国民」として、誇りに満ちた引き揚げ方だった。
文責:伊勢雅臣
(おわり)
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1507494911
歴史
9
10月
23
7月
- 1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2017/07/22(土) 21:55:20.56 ID:CAP_USER.net
英米紙の東京支局長を歴任した後、戦後の世界の動きを日本から見詰め続けてきたヘンリー・S・ストークス氏は『外国特派員協会重鎮が反日中韓の詐偽を暴いた』(弊社)を筆頭に数々のベストセラーを出版してきた。
そのひとつを英訳した『英国人記者が見た連合国の歴史観の虚妄』(2016年、Hamilton Books)に対し、今年6月、国家基本問題研究所から「日本研究特別賞」が贈られた。本書はその記念出版であり、ストークス氏の最新作である。
ストークス氏は「この五百年は白人が有色人種を支配する歴史だった」「それを打ち破ったのが大東亜戦争を戦った日本人だった」と言う。その主張はまさに日本人を覚醒させる。そして氏は思索をさらに『文明論』にまで広げ、本書で次のように喝破する。
「神話にまでさかのぼる万世一系の天皇のもと、日本だけが他国に征服されることなく、アジアでいち早く近代化を成し遂げ、欧米の侵略を撃破した。植民地とされた国々が独立できたのは日本のおかげと言っても過言ではない」
「中韓の反日は、この“奇蹟の国”への嫉妬である」「日本人自身が自らの悠久の文化と正しい歴史を知り、日本の特長を生かして、世界の新秩序構築に務めてほしい」
アメリカ主導で築かれた戦後の世界情勢が大きく軋(きし)み始めている今、ストークス氏の主張はまさに正鵠(せいこく)を得たものであり、今後日本が進むべき道を考える上で、大きな指標となるに違いない。
(ヘンリー・S・ストークス著/悟空出版・1400円+税)
『悟空出版』第一編集部 編集長・河野浩一
http://www.sankei.com/life/news/170722/lif1707220013-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/170722/lif1707220013-n2.html
http://www.sankei.com/images/news/170722/lif1707220013-p1.jpg
『欧米の侵略を日本だけが撃破した』
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1500728120
17
11月
- 1 名前:エベンキ連呼の@ばかばっか ★@\(^o^)/:2016/11/17(木) 09:09:56.34 ID:CAP_USER.net
http://dimg.donga.com/egc/CDB/JAPANESE/Article/14/79/33/65/1479336562655.jpg
韓半島で最も古い青銅器が江原道旌善郡(カンウォンド・チョンソングン)のアウラジ遺跡から発見された。
今回発見された青銅器は、平安北道新岩里(ピョンアンプクト・シンアムリ)の遺跡で発見された青銅器とともに紀元前13世紀まで遡る「早期青銅器」時代の遺物と推定される。
既に韓半島中南部の最も古い青銅器は、麗水(ヨス)と全州(チョンジュ)などで発見された琵琶形銅剣で、紀元前10~9世紀の遺物だ。
今回の発見で、韓半島の中・南部で青銅器を初めて使用した時期が300年ほど早まることになった。
学界では、早期青銅器の遺物は非常に珍しく、考古学界で早期青銅器の代わりに使った「無紋土器時代」という用語が破棄されるかも知れないという展望も出ている。
江原文化財研究所は16日、
「今年3月に着手した第2次発掘調査で、青銅器と新石器、鉄器時代の住居地と支石墓など計109点の遺物が確認された」と明らかにした。
2006~2007年の第1次発掘調査では、新石器と青銅器時代の住居地、竪穴、墳墓など46の遺物が調査された。
このうち最も注目されるのは、青銅器の住居地内で発見された青銅装身具だ。
早期青銅器の代表遺物である刻目突帯文土器とともに発見されたこの装身具は、周辺の木炭の放射性炭素年代を測定した結果、紀元前13~11世紀のものと推定された。
これまで慶州(キョンジュ)、淳昌(スンチャン)、春川中島(チュンチョンチュンド)などで早期青銅器の遺跡が発見されたが、青銅器は発見されなかった。
江原文化財研究所のチェ・ジョンモ研究室長は、
「韓半島の青銅器研究史を覆し得る画期的な発見だ」と評価した。
青銅装身具4点は、石の指輪のように薄い青銅のリングと管玉に似ている。
特に、管玉に似た青銅装身具は韓半島で初めて出た形で、同時期に中国でも発見されていない。
現場を見た李健茂(イ・ゴンム)前文化財庁長は、
「中国から遠く離れた旌善で独特の青銅装身具が発見されたことは意味が大きい」とし、
「伝来品ではなく独自に製作された装身具と見るべきだろう」と強調した。
http://japanese.donga.com/List/3/08/27/782896/1
ニュース速報+ http://daily.2ch.net/newsplus/
政治ニュース+ http://karma.2ch.net/seijinewsplus/
ビジネスニュース+ http://potato.2ch.net/bizplus/
元気ニュース+ http://potato.2ch.net/wildplus/
ローカルニュース+ http://potato.2ch.net/femnewsplus/
ニュース国際+ http://potato.2ch.net/news5plus/
科学ニュース+ http://potato.2ch.net/scienceplus/
痛いニュース+ http://potato.2ch.net/dqnplus/
PINKニュース+ http://phoebe.bbspink.com/pinkplus/
お詫び+ http://potato.2ch.net/owabiplus/
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1479341396
16
11月
- 1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2015/11/16(月) 14:46:41.70 ID:???.net
http://www.sankei.com/images/news/151116/wst1511160006-p1.jpg
朝鮮総督府官吏時代の朝鮮について振り返る西川清さん。「女性を強制的に慰安婦にしたなんてありません」と語り、誤った〝史実〟が国際的に広がっていることに憤った
http://www.sankei.com/images/news/151116/wst1511160006-p3.jpg
朝鮮時代、日本人と朝鮮人の同僚と花見をした西川清さん(左から3人目)。「差別感情はなかった」と振り返った=昭和9年、江原道の春川神社(西川さん提供)
慰安婦問題をめぐり韓国が「歴史戦」を仕掛けてくる中、元朝鮮総督府官吏の西川清さん(100)が取材に応じ、「強制的に女性を集めることはなかった」と慰安婦募集の強制性を明確に否定した。
11月上旬に行われた日韓首脳会談では、安倍晋三首相と朴槿恵(パク・クネ)大統領が慰安婦問題の交渉加速化で一致した。
しかし、朴大統領は問題が日韓関係改善の「最も大きな障害物」と指摘しており、日韓の隔たりは大きい。
昨年、朝日新聞が慰安婦に関する記事の一部誤報を認めたが、「日本軍による強制連行」の象徴として海外都市に慰安婦像が設置され、今も誤解が根強く残る。
韓国側の反日攻勢に対し、当時を知る官吏の貴重な証言は、〝慰安婦狩り〟のような事実がなかったことを改めて示している。
平穏な日本統治時代
セピア色の古ぼけた写真。満開の桜の下で肩を組む男性4人が写っている。「80年もたってこんな状況になるとは、当時露ほども思わなかった」。西川さんは見習い官吏だった若き日の写真を手に、ため息をついた。
写真は昭和9年春、朝鮮半島東部にある江原道(こうげんどう)の春川(しゅんせん)で撮影された。職場の同僚と行った花見の際の記念写真で日本人と朝鮮人が2人ずつ収まり、うち1人が西川さんだ。8~20年に総督府に勤めていた。
「差別感情はなく、同等という雰囲気だった。今、韓国が日本統治時代はすべて悪業として批判していることは、事実としてあり得ないことだ」
正式に総督府江原道の官吏になった12年当時、朝鮮には日本の県にあたる道が13あり、その下に市にあたる府と郡、さらに町村にあたる邑(ゆう)と面があった。職員の多くは朝鮮人。
同僚や上司、知事や部長クラスの重席にもおり、分け隔てなく野球をやったり、飲み会をしたりもした。
「朝鮮人同士は朝鮮語を話していたし、朝鮮名の職員も多かった。何でもかんでも日本が強制したということはありませんでしたよ。ましてや女性を強制的に慰安婦にしたなんてありません」
歴史をゆがめた「河野談話」
韓国側は「20万人以上の女性を慰安婦として強制的に動員した」などと主張している。この誤った慰安婦強制連行説は、証拠資料や信頼に足る証言もないまま慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野談話を根拠に、世界に流布されている。
西川さんは「併合時代の朝鮮は、むしろ治安が良かった。そして何より、女性を強制的に集めることがあれば、当時の朝鮮人が黙っていないでしょう」と韓国の主張を否定。
「男性の徴用はあったが、だからといって軍や警察も一緒になって暴力的に連行するということは決してなかった」と証言する。
西川さんは昭和18年、江原道寧越郡の内務課長を務めた際、労働力不足を補うための労働者として男性の募集を担当した。19年9月以降は日本国民と同じく課せられた「徴用」となったが、18年当時は総督府自らが集める「官斡旋(あっせん)」方式だった。
西川さんによると、男性の労働力を集める官斡旋は総督府が道庁に人数を割り当て、さらに郡、邑、面に降りていく。前任者は10人の割り当てでも5~6人しか集められない状態だった。
「だから村長ら住民のリーダーにきちんと説明して納得してもらうことが必要だった。軍については総督府と指揮系統は別だったが、仮に軍が慰安婦を集めていたなら、われわれの耳にも少なからず入ってくるはず。でもそんな話はなかった」と証言している。
「事実と異なる歴史像」元官吏ら2人も反論
「女子の強制連行があったような兆候を感じたことは一度もありませんでした」。元朝鮮総督府江原道地方課長で、「慰安婦強制連行はなかった」の著書がある大師堂経慰(だいしどう・つねやす)さんは生前、こう述べていた。
http://www.sankei.com/west/news/151116/wst1511160006-n1.html
http://www.sankei.com/west/news/151116/wst1511160006-n2.html
http://www.sankei.com/west/news/151116/wst1511160006-n3.html
http://www.sankei.com/west/news/151116/wst1511160006-n4.html
(>>2以降に続く)
- 2 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2015/11/16(月) 14:47:14.12 ID:???.net
(>>1の続き)
大正6年に朝鮮で生まれ、「戦前・戦時中を朝鮮で過ごした者の体験」として「慰安婦強制連行」を一貫して否定していたのだ。
「もしも万を数える女性の強制連行があったとすれば、その何倍の目撃者がいるはずだ」。平成15年の月刊誌「正論」3月号の紙面対談で大師堂さんはそう指摘している。
強制連行が事実なら、住民の間に深刻な動揺と反発が起きていただろうが、実際は「発生したはずの(抗議運動といった)事象は何ひとつ起きていないのです」と断言していた。
《平和でのどかな農村にある日、突然日本軍が乗り込んできて無垢(むく)な娘たちを無理やり軍用トラックに押し込んで連れ去り、慰安婦にした》
韓国側が主張する慰安婦の強制連行は非人道性がことさら強調され、海外でもこうしたイメージが広がっている。
しかし朝鮮総督府の元警察官僚で、戦後に埼玉県警本部長や大分県副知事を務めた坪井幸生さんも生前、大師堂さんとの対談で韓国側の主張を真っ向から否定していた。
「強制連行があれば、必ずトラブルが起き、田舎では日本人はとても普通の生活はできなかったと思う」
しかも、朝鮮に13あった道の警察部では、トラブルの情報は上がってこなかった。「朝鮮人の警察官も半分以上いたのが実情ですから。しかし、そんなトラブルは全く聞いていない」と語っていた。
大師堂さんは著書で、「私の体験した朝鮮とは全く異なった歴史像が作り上げられている」と、国内の偏向報道や韓国側の主張を疑問視。「総督府施政を抑圧と反抗の連続であったような伝え方がされるが、これは事実ではない」とも書き記していた。
安倍首相への〝直訴〟
平成5年の河野談話は、慰安婦問題に「軍の関与」を認め、募集について「官憲等が直接加担したこともあった」とした。日本の軍や警察による強制連行の論拠とされたが、政府が集めた公式資料に強制連行を裏付ける証拠はない。
元朝鮮総督府官吏、西川清さんは当時の朝鮮に、朝鮮人が経営する「カルボチビ」という売春宿があったことを記憶している。日本でも貧困から女性が遊郭に身売りされていた時代だ。
「朝鮮でも身売りはあった。こうした女性が朝鮮人の女衒(ぜげん)によって慰安所に連れられたことはあるだろうが、あくまでも民間の話だ。もしも日本の公的機関が関与していれば、絶対に文書で残っているはずだ」
国際的に誤った〝史実〟が広がっていることに憂慮を深める西川さんは2年余り前、日本軍や官吏による強制連行を否定する手紙を安倍首相に郵送したこともある。
「当時の朝鮮の仕組みを知る者からすれば、いわゆる『従軍慰安婦』は戦後に作り上げられた机上の空論です」
今夏に100歳となった西川さんは、事実がねじ曲げられた現状にいまなお憤りを感じている。
(おわり)
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1447652801
21
9月
- 1 名前:LingLing ★@\(^o^)/:2015/09/21(月) 17:04:11.33 ID:???.net
■「シルクロードの起点は西安ではなく新羅」
韓国の国際学会で多くの学者が主張
http://www.chosunonline.com/site/data/img_dir/2015/09/21/2015092100962_0.jpg
http://www.chosunonline.com/site/data/img_dir/2015/09/21/2015092100962_1.jpg
韓国で開かれた国際学会で、古代シルクロードは中国・西安を起点にローマへと続く道ではなく、
新羅とローマを結ぶ道だったとする主張が示された。
世界首都文化研究財団(キム・イルユン理事長)と慶州大・シルクロード研究院が18日から
19日にかけ、韓国・慶州市内のホテルで「シルクロードの古代首都」と題する国際学会を開催した。
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の木下亘副館長、クォン・ヨンピル尚志大教授ら、
国内外の研究者が出席した。
学会では多くの学者がシルクロードのルートについて、新羅を起点として西安を経てコンスタンティ
ノープル(現在のトルコ・イスタンブール)やローマに続く道だったとの見方を示した。
カザフスタンのIssyk博物館のムクタロバ館長は「カザフスタンの古墳から出土した『黄金人間』に
関連する黄金の副葬品は、新羅の積石木槨墳から出土した副葬品と似た点が多い。新羅の
人々がカザフスタンまで交流に訪れていた可能性がある」と指摘した。
また、木下副館長は「1963年に橿原市の新沢千塚126号墳から出土した玉類、青銅製の鏡
などの副葬品の大半が新羅の古墳から出土した副葬品と似ている」とした上で「シルクロード文化
が新羅を経て日本まで伝わった」との持論を示した。
これと関連し、世界首都文化研究財団のキム・イルユン理事長は「シルクロードは昔から、絹織
物をはじめとする多くの物品が行き来した東洋と西洋の貿易路だった。シルクロードの研究を通じ
て新羅がシルクロードの主要拠点都市だったことを世界の学界に広め、韓国が追求する(ユーラ
シアを一つの交通物流網で結ぶ)『ユーラシア・イニシアチブ』政策を具現していくべきだ」と語った。
イ・ビョンヒ記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/09/21/2015092101059.html
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1442822651
7
9月
- 1 名前:LingLing ★@\(^o^)/:2015/09/06(日) 23:23:14.90 ID:???.net
■日韓大学生が「善隣友好」 朝鮮通信使の道たどる
2015.9.6 16:27
6日、ソウルの街を歩く日本と韓国の大学生ら
http://www.sankei.com/images/news/150906/wor1509060020-p1.jpg
朝鮮王朝が日本に送った外交使節団「朝鮮通信使」が歩いた道をたどり善隣友好の精神を
見つめ直そうと、日本と韓国の大学生ら計約50人が6日、韓国のソウルから南部釜山を目指す
旅をスタートさせた。
14日まで徒歩やバスで移動しながら日韓関係の歴史に触れる。19~28日には韓国側の
参加者約30人が訪日し、京都や静岡など通信使ゆかりの地を訪れる。
日本政府の支援を受ける「21世紀のユース朝鮮通信使」で、埼玉県狭山市のNPO法人
「日中韓から世界へ」が主催し、今年で3回目。
ソウルにある朝鮮王朝の王宮、景福宮前を出発した一行は、習慣の違いや人気ゲームなどの
話題を、互いの言葉を交えて語り合いながら歩を進めた。
沖縄県浦添市の玉那覇真希さん(24)は「最近、韓国の悪い情報ばかり伝えられるが、
実際はどうなのか自分の目で確かめたかった。交流した皆は明るくて良い雰囲気」と笑顔を
見せた。(共同)
http://www.sankei.com/world/news/150906/wor1509060020-n1.html
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1441549394
26
3月
- 1 名前:もろ禿 ◆SHINE.1vOk もろ禿HINE! ★@\(^o^)/:2015/03/26(木) 06:28:20.53 ID:???.net
「侵略、植民地支配は明白」米メディアが日本批判=韓国ネット「日本は地球の繁栄も自分たちのおかげと言い出すぞ」「米国に批判する資格なし」 (Record China) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150326-00000005-rcdc-cn&pos=1
2015年3月25日、韓国・韓国日報は、日本政府が最近、「植民地支配と侵略の定義はいろいろ議論があり、説明することは困難である」という立場を明らかにしたことについて、米国内で批判の声が
出ていると報じた。
報道によると、米国のアジア関連ニュース・評論サイト「ネルソン・レポート」は24日、「日本政府が何を考えて『侵略』と『植民地支配』の定義に議論が必要だと主張しているのか分からない」とし、
「歴史的に明白な侵略行為や植民地支配の定義について答えるのが困難なのだろうか」と批判した。
また、「中国に対して『過去に侵略はなかった』とすることは基本的に不可能である。日本政府のこのような態度は中国を全く配慮していない証拠」と指摘した。さらに、「韓国国民が『日本統治時代の
37年間は植民地支配ではなかった』と考えるわけがない」とも指摘している。
この報道を受け、韓国のネットユーザーから多くの意見が寄せられている。
「韓国メディアよりよっぽど良い」
「米メディアは適切な指摘をしている」
「的確な指摘だ。韓国政府はなぜこのように論理的に反論できないんだ」
「日本はそのうち地球も自分たちが繁栄に導いたって言い出すぞ」
「どうして日本は自分たちの歴史を認めないのだろう?このままだと日本は孤立するぞ。一匹狼だ」
「もう一度、国を統合して一つになっても、日本はまた裏切る」
「米国にそんなことを言う資格はない」
「『ネルソン・レポート』が米国メディア?近所のちらしレベルのサイトだよ」
「日本が韓国の景気低迷を救済してくれるだろうから、また植民地支配してもらおう」
「敗戦国の侵略・植民地支配は謝罪の対象で、戦勝国の侵略行為は正当なのか?」(翻訳・編集/三田)
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1427318900
2
2月
- 1 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2015/02/02(月) 07:56:41.83 ID:???.net
http://www.sankei.com/images/news/150202/wor1502020009-p1.jpg
1950年6月の朝鮮戦争勃発直後、金浦空軍基地に到着したダグラス・マッカーサー元帥を迎える李承晩・韓国初代大統領(右)。
李氏はこのころ、“危険分子”として大量の民間人や政治犯の処刑を命じ、犠牲者は60万~120万人ともいわれる
イスラム過激武装集団《イスラム国》と韓国が、小欄の頭の中で混ざり合った。両者に共通するのは「民主主義とは異質な法治体系」の他「歴史への常軌を逸した執着」ではないか。
片や歴史を遡り、現代の主権国家枠を否定。片や歴史を遡り、主権を捏造し人権否定を覆い隠す。と、考えを整理していた1月23日、イスラム国の蛮行がきっかけで、日韓併合(1910年)の正統性や、
百ウン十万と報じられてもいる韓国政府が行った自国民大虐殺など、「韓国が知られたくない哀史/恥史」へと筆を走らせる仕儀と成った。
独立認めなかった米国
1月23日。イスラム国が拘束したジャーナリスト、後藤健二氏(47)のご母堂(78)は会見で、父親が日韓併合時代、朝鮮・馬山(マサン)に駐屯した大日本帝國陸軍の部隊長だった旨示唆した。
調べると、朝鮮軍管区の馬山駐屯直轄部隊指揮官(中佐)がご母堂と同姓だったが、追加取材はしなかった。小欄の興味は、会見が誘った朝鮮軍管区を通して思い出した「韓国の哀しい生い立ち」にある。
大日本帝國は1945年8月15日、大東亜戦争(1941~45年)敗戦を国民に知らせた。無政府状態を憂う朝鮮総督府は《朝鮮建国準備委員会》設置を比較的冷静・公平に対処できる朝鮮人指導者に要請した。
ソ聯軍侵攻→朝鮮人政治・思想犯の釈放・流出→朝鮮共産化→日本人への掠奪・暴行…が想定され、朝鮮人釈放や治安維持への協力を取り付ける意図もあった。
だが、自治組織に過ぎぬ委員会は45年9月6日《朝鮮人民共和国》を樹立し“独立”を宣言してしまう。
一連の流れの中で、朝鮮総督の阿部信行・陸軍大将(元首相/1875~1953年)や朝鮮軍管区司令官の上月良夫・陸軍中将(1886~1971年)が総督府はじめ主要な建物から日章旗を降ろし、太極旗(現韓国国旗)を掲揚させる。
しかし“独立宣言”直後、進駐した米軍は太極旗を降ろさせ、日章旗を再び掲揚させた。米軍の軍政が本格的に始まるや、日章旗が星条旗へと付け替えられた。なぜか-
米国は日章旗掲揚で朝鮮=日本だと公認。軍政に正当性を持たせた。朝鮮が別国家ならば解放したことになり、解放後は統治を朝鮮に任せる過程を生む。従って終戦直後、米軍上陸前の統治を総督府に密命した。
治安も朝鮮軍管区や日本の官憲に担わせた。上陸後も、日本人官吏は相当期間軍政を支援、治安も軌道に乗るまで日本側が協力した。日本側の統治能力や軍紀を大いに評価していた背景も在った。
反面、米国は当初、朝鮮人を軍政より徹底的に遠ざけた。朝鮮人の軍政登用は牛歩で進められた。なぜか-
強弁だけの「抗日戦」
統治能力欠落や、度を超した自己主張、激高しやすい民族性に加え、偏狭な民族主義者や共産主義者が入り乱れ、一致団結して建国に邁進するまとまりに欠けている…など。こと朝鮮人に関し米国の学習能力は高かった。
実際45年秋、30もの朝鮮人軍閥が警察署や新聞社、企業・工場・商店を勝手に接収。米軍は武装解除を強制したが効果は限られた。政党や政治結社も200近くにのぼり、指導者は内部抗争を繰り返し暗殺・テロが横行した。
そも朝鮮人民共和国ですら中華民国に建てた韓国臨時政府と対立。2つの“政府”それぞれの内部でも抗争に明け暮れた。米国は朝鮮人の政党も政治活動も全く認めなかったのに、この有り様。
斯くなる混乱では、38度線の北側に陣取るソ聯軍に対する力の均衡維持は覚束ない。米国の最重要課題はソ聯の半島支配阻止で、南朝鮮独立は副次程度の認識だった。
米国は、曲がりなりにも内閣・政府を通じ権力を行使した日本と同じ統治形態ではなく、韓国に直接軍政を敷いた正解を噛み締めた。
しかも朝鮮人は戦前~戦中~戦後と、日本に向けまともなゲリラ抗戦も民族蜂起も起こしていない。むしろ帝國陸軍内の朝鮮人高級軍人の武勇は目覚ましく、触発された朝鮮人が志願兵募集に殺到した。
42年と43年の場合、募集各4000/6000名に25万5000と30万人超が受験。競争倍率63/50倍が裏付ける朝鮮人の戦意に日本=朝鮮一体を確信する米国専門家もいた。
http://www.sankei.com/world/news/150202/wor1502020009-n1.html
(>>2以降に続く)
- 2 名前:ねこ名無し ★@\(^o^)/:2015/02/02(月) 07:57:09.43 ID:???.net
(>>1の続き)
韓国が「日帝を打ち負かして独立を勝ち取った」と強弁しようと、独立は日本敗戦3年後。
米国は聯合国による長期の半島信託統治を描いたが、北朝鮮に統一国家を建設する動きを見せたソ聯に対抗、韓国の独立実施を大きく前倒しした。日本ではなく、日本に勝った米国に棚ぼた式で譲ってもらったのだ。
無辜の民を大虐殺
哀れ韓国は「歴史の不完全燃焼」に身悶えるだけでコンプレックスを癒やせない。制御不能な嫉妬の炎は“歴史の新作”を次々ひねり出すエネルギー源と化す。
半面、取り憑かれたような情念で日本を「口撃」している間は、不都合な史実は目立たない。韓国の為政者の反日カードは国家戦略であり続ける。
《国民保導連盟事件》も反日の激しさで埋没させたい超弩級の傷。会見で具体名が出た「馬山」も事件の舞台だった。
保導連盟とは、共産主義者が転向し、韓国に忠誠を誓う人々と家族を再教育・統制すべく立ち上げられた思想保護観察組織。ところが、朝鮮戦争(1950~53年休戦)勃発で連盟加入者名簿は虐殺リストに変わる。
北朝鮮軍がソウルに迫るや初代大統領・李承晩(イ・スンマン)大統領(1875~1965年)は国民や韓国軍将兵を見捨てて逃亡。その際、連盟登録者を“危険分子”として処刑するよう軍・官憲に命じた。
北朝鮮側間諜が紛れた可能性は有るが、大多数は無辜の民。食料の優先受給目的で登録した人もいた。政治犯ら政権に目障りな人々もついでに抹殺された。
韓国紙によれば60万~120万人、政府も《子供を含む最低10万人以上》の国民を虐殺し、排水溝や海に遺棄した暴挙を認めた。馬山でも廃坑や刑務所内で殺戮が行われた。
おびただしい数の韓国人が難を逃れ、日本に密入国し、大半が居座った。そうか。(南北)朝鮮とイスラム国の最大の共通項は凶暴で残忍。であるが故に大量の死者・棄民を輩出しても心痛まぬ思考回路。
まだある。日本を歴史捏造でいたぶり、つきまとって離さぬ韓国。日本人を拉致・誘拐する北朝鮮とイスラム国。わが国を「解放」でじらす外道ぶりはソックリだ。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)
(おわり)
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1422831401
1
9月
- 1 名前:Hi everyone! ★@\(^o^)/:2014/08/31(日) 23:37:08.81 ID:???.net
ソース(リテラ) http://lite-ra.com/2014/08/post-419.html
写真=『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(加藤直樹/ころから)
http://lite-ra.com/images/gyakusatsu_140831.jpg
路上やネットに響き渡るヘイトスピーチ、本屋に山積みにされる嫌韓本、毎週のように週刊誌を飾る嫌韓特集……。これらの主張を
ひとつひとつ見てみると、そこにあるのはもはや歴史認識や主義主張の問題ではないことがよくわかる。捏造と妄想によって韓国・
朝鮮人に対する憎悪、恐怖が煽られ、グロテスクな差別感情が一気に噴き出しているだけだ。
この風景を見て想起させられるのが91年前の9月1日のできごとだ。1923年9月1日午前11時58分。マグニチュード7.9、震度7の
巨大地震、関東大震災に乗じて、日本でもジェノサイド「朝鮮人虐殺」が起きたのである。
倒壊・焼失家屋約29万3000軒、死者・行方不明者10万5000人以上に及ぶ壊滅的被害が広がる中、始まりは、人々の間で「朝鮮人が
井戸に毒を投げ入れている」「放火している」という不穏な噂が駆け巡ったことだった。
この噂は何の根拠もないデマだったが、瞬く間に広がりを見せる。そして噂を信じた日本人は自警団を組織して、朝鮮人たちを襲い、
次々と虐殺していったのだ。民間人だけではなく、警察、軍もそれに加わり、当時の警察が立件しただけで233人、実際は少なく
見積もっても1000人以上の朝鮮人・中国人が虐殺された。
ところが、ここにきて“嫌韓ブーム”にのってネトウヨ、保守派の間で、こんなストーリーが出まわり始めている。
「当時、実際に朝鮮人の暴動があったのは間違いがない。その暴動を鎮圧する過程で虐殺にエスカレートした」
「共産主義の国際団体のコミンテルンが日本で革命を起こすために、朝鮮人に暴動を煽った」
日本人だけが悪いわけではない、虐殺には正当な理由があったという謀略論である。さらには、虐殺そのものを否定する『関東大震災
「朝鮮人虐殺」はなかった!』(加藤康男/ワック)なる嫌韓本まで登場した。
歴史修正主義者やレシイストたちが侵略戦争の次に、このジェノサイドまでをなかったとことにしようと企図しているわけだが、一方で、
こうした状況に危機感を抱いて一冊の本が出版され、話題になっている。『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』
(加藤直樹/ころから)だ。
この本の中心をなしているのは、虐殺事件の解説や歴史的分析ではない。著者は読者に「現実」を感じてもらうため、ひたすら当時の
証言や記録を集め、事細かにそれを紹介していく。しかも、それは、公文書や軍の資料、戦後の検証記録はもちろん、被害者の朝鮮人、
目撃した一般住民、さらには作家の芥川龍之介や国学者である折口信夫の証言まで、多岐にわたったものだ。
そうした資料からは、無抵抗な朝鮮人たちが虐殺されていった様子が想像以上に生々しく浮かびあがってくる。たとえば、当時、
文芸評論家・中島健蔵が神楽坂で目撃した虐殺はこのようなものだ。
「(震災翌日の9月2日、群衆でごった返す神楽坂警察署前で)突然、トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、
つかまった二人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたしくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぶい音が
して、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭にふりおろしたのである。
ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしは(中略)目をつぶってしまった。
ふしぎなことに、その兇悪な犯行に対して、だれもとめようとしないのだ。そして、まともにトビ口を受けたその男たちを、(中略)警察の
門内に押し入れると、大ぜいの人間がますます狂乱状態になって、ぐったりした男をなぐる、ける、大あばれをしながら警察の玄関に
投げ入れた。」(『昭和時代』)
(>>2以降に続く)
- 2 名前:Hi everyone! ★@\(^o^)/:2014/08/31(日) 23:37:38.99 ID:???.net
(>>1の続き)
人々は朝鮮人と見るや、鉄線で縛り、家や列車から引きずり、集団で暴行した。それを止める人はほとんどいなかったという。
人々は万歳、万歳と言いながら、朝鮮人という理由だけで集団で虐殺をしていく。その多くはどこにでもいる日本人???。同書は
『風よ鳳仙花の歌をはこべ』( 教育史料出版会)に収録された葛飾区四ツ木橋付近の地元住民からの聞き取りを紹介しているが、
そこには自警団と称する民間の日本人による凄惨きわまりない“朝鮮人狩り”の目撃証言がいくつも登場する。
「四ツ木橋のむこう(葛飾側)から血だらけの人を結わえて連れてきた。それを切って下に落とした。旧四ッ木はしの少し下手に穴を
掘って投げ込むんだ」
「(自警団が殺したのは)なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。
女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」
さらに、自警団だけでなく、警察、軍隊まで出動して「戦争気分」で朝鮮人を虐殺した。当時、習志野騎兵連隊に入隊していた
越中谷利一はこう記している。
「(亀戸駅付近に止まっていた列車の内外を調べ)その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣下
に次々と倒れていった。日本人避難民のなかからは嵐のように沸きおこる万歳歓呼の声──国賊!朝鮮人は皆殺しにしろ!」
(『関東大震災の思い出』)
先の四ツ木橋付近の聞き取りでも、軍による朝鮮人虐殺の証言がいくつも出てきている。
「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない
人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」
もっと生々しいのは子どもたちの証言だ。同書では、関東大震災から半年の間に書かれた子どもの作文を紹介しているが、そこには
子どもならではのあまりにリアルすぎる目撃談が大量に出てくるのだ。
「朝鮮人がころされているというので私わ行ちゃんと二人で見にいつた。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさに
そばによつてみた。すると頭わはれて血みどりにそまつていた」(横浜市・高等小学校1年女児)
「私たちは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました・それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だけがころがつて居ました」
(同1年女児)
「歩いて居ると朝鮮人が立木にゆはかれ竹槍で腹をぶつぶつさられ(刺され)のこぎりで切られてしまひました」(同小学校男児)
「するとみなさんがたが朝鮮人をつついていましたからは(わ)たくしも一ぺんつついてやりましたらきゆうとしんでしまひました」
(横浜市尋常小学校4年男児)
虐殺は東京だけでなく、横浜、埼玉、群馬、栃木と広がり、朝鮮人だけなく中国人も間違えて虐殺された。
まさに自分たちの先祖が犯した罪に慄然とするが、そこには保守派や歴史修正主義者が唱えるような「朝鮮人の暴動」や「謀略」の
客観的証拠はまったくない。あるのは「日本人が何の罪もない無抵抗な朝鮮人を集団で虐殺した」という膨大な証言と記録だ。
(さらに続きます)
- 3 名前:Hi everyone! ★@\(^o^)/:2014/08/31(日) 23:38:05.63 ID:???.net
(>>2の続き)
朝鮮人の暴動デマは、戦後、衆院議員、読売新聞社主として政界、マスコミ界に君臨した正力松太郎が警視庁官房主事時代に
広めたことがわかっている。
「九月、東京の路上で」でもそのことは指摘されていて、「デモや集会を取り締まり、朝鮮人学生のひそかな独立運動に目を
光らせていた」正力がそのデマに振り回され、「軍人達に『こうなったらやりましょう!』と腕まくりをして叫び、警視庁に駆けつけて
いた新聞記者たちには『朝鮮人が謀反を起こしているといううわさがあるから触れ回ってくれ』と要請する」とある。
だが、その正力は後に、この朝鮮人暴動がデマだったと認めているのだ。正力の回顧録『米騒動や大震災の思い出』にはこんな
くだりがある。
「しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうちにようやく夜の10時ごろに至ってその来襲は
虚報なることが判明いたしました。(中略)要するに人心が異常なる衝撃を受けて錯覚を起し、電信電話が不通のため、通信連絡
を欠き、いわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第であります(後略)」
普通の人々が持つ潜在的な差別意識と恐怖心、加えて震災で通信が寸断され、何が正確な情報が分からなくなった時、虐殺は
起こった。歴史修正主義者やネトウヨがどういおうと、これはまぎれもない事実なのだ。
翻れば、90年後の現代日本も韓国、北朝鮮に対し、民族差別と恐怖とを同時に持ち合わせているように見える。社会に対する閉塞感、
鬱憤を、分かりやすい弱者へと向けていく。歴史は今、まさに繰り返されようとしている。
8月20日未明に広島市を襲った集中豪雨と土砂災害もまた、甚大な被害を出したが、最近になって震災現場で空き巣被害が出た
ことで「外国人による犯罪」と指摘するネット上での書き込みがあり、それが拡散しているのだ。その噂の広がりから広島県警では
「外国人が逮捕されたとの話は聞いていない」と否定しているが、しかしネットの拡散は今も続いている。
嫌韓、外国人排斥がこれほど広がりを見せる今だからこそ、91年前に日本人が起こしてしまった忌まわしい、そして恥ずべき自らの
歴史を直視すべきではないだろうか。
(終わり)
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1409495828
23
8月
- 1 名前:北村ゆきひろ ★@\(^o^)/:2014/08/23(土) 20:12:29.44 ID:???.net
江戸時代に日朝交流を担った朝鮮王朝の外交使節団「朝鮮通信使」の行列を再現するイベントが23日、
山口県下関市で行われた。
下関市との姉妹都市である韓国・釜山市の市民を含む約240人が参加し、日韓両国の友好を確かめ合った。
出発式で、下関市文化振興財団の中野忠治理事長が「再現を通して両市の交友発展を祈念したい」とあいさつ。
釜山文化財団の洪基浩氏も「通信使の友好の意思を一緒に伝えていきたい」と答えた。
行列では、青や黄色など色鮮やかな王朝衣装のほか、武士の姿をした参加者も。
演奏隊がラッパや太鼓を奏でる中、約2キロを練り歩いた。
http://img.47news.jp/PN/201408/PN2014082301001668.-.-.CI0003.jpg
http://www.47news.jp/CN/201408/CN2014082301001651.html
引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1408792349