1 名前:@仮面ウニダー ★:2024/09/20(金) 13:50:08.60 ID:SEIuUwep.net
 朝鮮戦争中だった1952年、ホン・ジョンインさんを団長とする韓国山岳会傘下の鬱陵島(ウルルンド)・独島(トクト)学術調査団が
鬱陵島に到着したのが9月18日だった。釜山(プサン)港から出発した交通部所属の船舶「ジンナム号」に乗り込み、
一日中打ちつける波に耐えながら鬱陵島(ウルルンド)に到着した調査団は、3日前に米軍の飛行機が独島に数発の爆弾を投下して
帰ったという驚くべき話を耳にした。当時、「東亜日報」は事件をこのように報道した。
ー中略ー

 当時、米軍政司令官だったジョン・ホッジ中将は「現場撮影写真を審査した結果、独島近海にある小さな漁船は爆撃機B29の
高度爆撃練習時に岩とみなされたことが判明した」とし、「爆撃30分後に偵察機が撮影した写真により、この危険地区内に多数の小船舶
があることを発見した。正式調査が終わり次第、完全な報告を上級司令部に折衝する」とし、事実を認めた。

 これと関連し、独島現地では今も毎年、独島爆撃事件の真相究明を求め犠牲者慰霊行事が開かれている。
これに先立ち、1947年4月にも独島で爆撃訓練があったという証言とメディア報道が残っている。

 この中でも1952年9月の独島爆撃が特に注目されるのは、日本政府が今もこの事件を独島領有権主張の根拠にしているためだ。
18日、日本外務省のホームページ「日本の領土をめぐる情勢」の項目を見ると、「我が国がいまだ占領下にあった1951(昭和26)年7月、
連合国総司令部は、連合国総司令部覚書(SCAPIN)第2160号をもって、竹島を米軍の爆撃訓練区域として指定した」とし、
「サンフランシスコ平和条約発効直後の1952(昭和27)年7月、米軍が引き続き竹島を訓練区域として使用することを希望したことを受け、
日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取極。現在の「日米地位協定」に引き継がれる)に基づき、同協定の実施に関する日米間の
協議機関として設立された合同委員会は、在日米軍の使用する爆撃訓練区域の1つとして竹島を指定するとともに、
外務省はその旨を告示した」と書かれている。
ー中略ー

 しかしこれに先立ち、日本の敗戦と朝鮮の植民地解放以降、日本を占領・統治した連合国最高司令部(GHQ)は1946年1月29日、
指令(SCAPIN)第677号で鬱陵島と「リアンクル岩」(独島)、済州島を日本領土から除外すると明示(第3条)している。
日本が敗戦後に戦後処理をしていた1951年の大蔵省令第4号(2月13日)と首相府令第24号(6月6日)で鬱陵島(ウルルンド)と独島、
済州島(チェジュド)を日本の付属島嶼から外したことも、すでに確認された事実だ。

 日本政府が、敗戦直後の1950年代初めの事件によってこれまで独島領有権を主張していることは、歴史的事実に全く合致しないという
指摘が出ている。梨花女子大学のチョン・ビョンジュン教授(史学科)はハンギョレの電話インタビューで、
「1952年の独島爆撃事件は、日本政府がサンフランシスコ平和条約などで独島に関する領有権を認められず、その証拠を自ら作った
過程で起きた事件だ」とし、「在日米軍を介入させて独島を爆撃訓練場に指定し、解除する過程を経て、米国が独島を日本領と認めた
という主張をしたわけだが、そのような論理なら、すでに朝鮮戦争時に米空軍は韓国国防部との協議を経て独島を爆撃訓練場に
指定している」と指摘した。

全文はソースから
東京/ホン・ソクチェ特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
登録:2024-09-19 06:27 修正:2024-09-19 07:34
https://japan.hani.co.kr/arti/international/51124.html


引用元:https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1726807808