1 名前:朝一から閉店までφ ★:2024/06/17(月) 07:08:11.30 ID:+/dqW0Nq.net
2024年06月17日

 1945年8月、朝鮮半島。敗戦の10日後には38度線が封鎖され、北側に取り残された日本人は「難民」と化した。
ソ連軍の侵攻を知った数万人もの一般邦人は、西へ南へ向けて避難を開始。学校や駐在所など屋根のある「寝場所」は取り合いになったが、そこに広がっていたのはきわめて“異常”な光景だった――。

 そんな窮状を憂い、6万人もの同胞を救出する大胆な計画を立てて祖国に導いた「とある男」に光を当てたノンフィクション『奪還 日本人難民6万人を救った男』(城内康伸著)より、一部抜粋・再編集して紹介する。

 ***




25万人の逃避行

 厚生省引揚援護局未帰還調査部が1956年にまとめた「北鮮一般邦人の資料概況」によると、ソ連や満州と国境を接する咸鏡北道(ハムギョンプクド)に在住する日本人は、1944年5月の時点で約7万4000人だった。
 
 翌1945年8月、ソ連軍の侵攻を知ると、数万人の一般邦人は住み慣れた土地と家を捨てて炎暑の中、西へ南へと逃避行を始める。それは北朝鮮に当時住んでいた約25万人の日本人を襲う苦難の序章だった。
 
 実は、日本軍は1945年春、ソ連軍と開戦すると咸鏡北道が戦場になると想定し、事前に道民の避難計画を立てていた。
軍の予想した戦場地帯を避けて、羅津(ラジン)の西約50キロの会寧(フェリョン)を経て、さらに西へ進んだ茂山(ムサン)を経由し、内陸部の白岩(ぺガム)に南下するルートだった。
軍の指令に従って、咸鏡北道の防衛本部は7月、この避難計画を「第98計画」として、各地区の官公庁や民間企業の責任者に限定して知らせていた。ただ実際には、東海岸づたいに、清津(チョンジン)方面に南下する人々も相当数いたとされる。




「万単位の人間がね、狭い道をウッサ、ウッサと歩くわけですよ」
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/06170612/?all=1


引用元:https://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1718575691
10 名前:警備員[Lv.34]:2024/06/17(月) 07:40:24.38 ID:Cp992Re3.net

脱糞民主党のことか?


27 名前:1989六四天安門:2024/06/17(月) 08:25:58.68 ID:IiRSc8Ag.net

先人が苦労して食事用バケツとトイレ掃除用バケツの違いを教えたのにな、ヒトモドキには遂に理解出来なかったか